「社会保障費の増大」みたいな他人事を、どうしたら「自分ごと」にできるのでしょうか
地道に続けている連載の、最新号が発行されました。
今回は自分自身、本当に悩んだ内容でした。
社会保障費の増大のなかで、根本的に医療福祉のシステムを変えざるを得なくなる時代がくるのは避けようがありません。
だとすると、それを「誰かのせい」と思って不満を募らせるより、「自分ごと」と捉えてよりよく受け入れる道を探ったほうが得なんじゃないかと、素人なりに思っています。
その考えはしかし、どうしても「共感」を得られにくいものです。どうすればそのアイデアを、共感を持ってお伝えできるのだろうか、迷い迷いながら書いたものです。良かったら下記リンクからお読みくださいませ。ご意見、ご叱咤下さったら幸いです。
https://graphication2.s3.amazonaws.com/html/008/index.html#/spreads/72
ウソや誇張なしに、シェアされる方法とは
去年3月からネット上での情報発信を細々と始めさせていただき、おかげさまで少しずつシェアでの閲覧数が増えてきました。
迷い迷いながら書いている記事を、優しくシェアしてくださる方がいることは有難い…。と、いつも心から感謝しております。
同じ媒体で発表しているなかでも、だんだんとシェア数が増えていっているわけですから、何か、自分の記事のなかに変化が生まれたのかもしれない。
と思って、過去の自分の記事を読みながらつらつら考えてみたところ、次のようなポイントがあるのでは?と気づきました
ホットな話題を入口に
まあこれは、鉄則というか初歩の初歩というものだと思うのですが、受け取り側が知りたくなっているタイミングで情報を届けるということが大事なのだと思います。「上手な医学論文の読みかた」というテーマでは振り向いてくださる方が少なくとも、「カゼにビタミンCが効くかどうかって、どうやったら確かめられるんでしょうか?」という題名であれば、友達にシェアしたくなるかもしれません。
説教ではなく共感
どうしても記事って、思いを込めて書いている人であればあるほど「こんなに良い情報があるのだから、知ってほしい!!」という気持ちになります。それは自然なことなのですが、しかし受け取る側からすると、ちょっと熱意に押されてしまうというか、「上から目線」に感じられてしまうかもしれません。
そこで自分なりに考えた方法というのは、「まず疑問を立て、検証していく過程そのものを記事にする」というやり方です。そうすれば、受け取り側にも、その過程を追体験することにより、同じ目線で情報に興味を持ってもらえるかもしれないなと思っています。
正確さを、わかりにくさの「言い訳」にしない
「正確さ」は言うまでもなく、何を措いても大事なことです。ただ、「正確であればわかりにくくても良い」というのは、私個人としては良くない態度だと思っています。
専門家同士であればその態度で良いと思うのですが、「発信」ということを目的とするのであれば、専門用語を不用意に使うことで多くの人に「届く」チャンスを失うばかりでなく、「誤った受け取り方」をされてしまうリスクすら生じさせてしまいます。
正しいことは当たり前として、その正しさをどうすれば一発でわかるように表現できるのか、読む側の立場に立って、死ぬ気でその工夫を考えることが大切なのだと思います。
「誰に、どう幸せになってほしいか」を常に意識する
これは当たり前のことなのですが、ネット上の記事を書いていると、ともするとアクセス数やシェア数が最優先になってしまう危険が常にあります。わかりやすく評価されている気持ちになれるからです。
もちろんそれは大事だけれど、でも「なぜこの記事を書くのか」を振り返った時に、何より大切なのは、読んでくださった人がほんの1mmでも幸せになれたかということのはずです。個人的な経験では、それを突き詰めた時に、驚くほど大きな反響(シェア)が生まれるような気がしています。
良かったら語りましょう
2月18日(土)、上記に書いたようなことを、みんなで前向きに議論しようという研究会があります。想いある尊敬すべき雲の上のような発信者たちが集まります。その端くれに加えていただけることになりました。
もしこの記事を読んでちょっとでもご興味を抱いていただけたとしたら。。。
当日、お話し出来たらと思います。良かったら応援するつもりで、参加してやってください。
「認知症になると、人格は消えるのか?」自分なりに考えたこと
認知症になると、人格は消えてしまうのでしょうか?
たとえば認知症の原因となる病のひとつ「アルツハイマー病」になると、記憶力が低下してしまいます。場合によっては、配偶者や子どもなどの親しい家族の顔を見ても、その名前がわからなくなってしまうこともあるかもしれません。
それまで積み重ねてきた人生の素晴らしい経験や、愛しい人との記憶も失われてしまう。私という人格そのものも、消え去ってしまうのでしょうか?
当事者ではない私にとって、本当のところは、わかりません。
でも、ほんの少しでも、その疑問を考察するヒントを探したい。5年ほど前、そう思って取材をし、番組と本にまとめたことがありました。
***
先日、友人から「母親が認知症になり、少しずつ、以前と変わってきている気がする。どうしたらいいんだろう?」という相談を受けました。
いつも自分のことより、他人のことばかり考えている友人。
大切なお母さんの今後にどれだけ心を痛めているだろうかと想像すればするほど、何を言っても嘘くさいものになってしまいそうで、うまく答えることができませんでした。
どうしようかどうしようかと思い悩み、結局したことは、5年前に書いた本を贈ることでした。
認知症になっても、消えない記憶がある
例えばアルツハイマー病になると、記憶力が衰えるというのは聞いたことがあると思います。でも、「衰えやすい記憶と、衰えにくい記憶がある」ということは、あまり知られていないことかもしれません。
衰えてしまいやすいのは、「言葉にできる記憶」です。
例えば「昨日、リンゴを買った」というような、できごとに関する記憶。
例えば「この顔の人は、●●さんである」というような、意味に関する記憶。
私たちが記憶といった場合にすぐ思いつくのは、上記のようなものかもしれません。
でも記憶の中には、言葉に出来ないものがあります。
それこそが、認知症になっても衰えにくい記憶です。
たとえばその一つは「手続き記憶」というもの。
自転車に乗った時のことを、想像してみてください。
たとえ10年間、自転車に乗っていなかったとしても、サドルに腰かけペダルを回した瞬間に、うまくバランスをとることができます。でも、どのようにしてバランスをとっているかを言葉で説明することはできません。
また、「時速10km以下のとき、ペダルを何回転くらいにしておけば、バランスをとりやすいの?」と問われると、言葉にして答えることができません。(正確に言えば、とても困難です)
こうした、言葉にできない記憶は、認知症を引き起こす病にかかってしまったとしても、衰えにくいことがわかっています。
言葉にできない記憶は、たとえ病になったとしても残り続ける。世界中で過去に行われた研究により繰り返し実証されているという、その事実を知ったとき。
とつぜん私の中に、取材でお話を聞かせていただいた、あるご夫婦の姿が流れ込んできました。その映像が浮かんだ瞬間に、いままで迷いながら調べ、色々な人にお話を聞かせていただいた内容が、ひとつにつながりました。
その瞬間のことを忘れてしまわないように、どうしても何かにとどめておきたくて、夢中で本を書きました。
***
長々とすみません。
友人に、「この本を贈ろう」と思い至ったことをきっかけに、久しぶりに読み返してみて、あのときの気持ちを思い出しました。
自分の文章を引用するなんて、キモイにもほどがあることはわかっているのですが、勇気をもってその内容を、下記に記録しておきたいと思います。よかったら、お読みくださいませ。
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写真は、私が取材の時に、お二人に「記念撮影をさせていただけませんか」とお願いして撮らせていただいたものです。
落ち着いた時間を取り戻したご夫婦。渥子さんが阪田さんの腕をとり、二人で写真に収まっています。
どちらも、とても素敵な笑顔をされていると思いませんか?
ご夫婦の取材を終えてのち、仕事場でぼんやりとこの映像を見ているうちに、はたと気づいたことがありました。渥子さんの姿や表情が、あるものとそっくりなのです。
それは取材中に見せていただいた、何十年も前の夫婦の記念写真でした。腕を組み、ご主人のほうへちょっと首を傾けて笑うその姿は、白黒写真の中でほほ笑む、若かりし頃の渥子さんの姿と全く同じだったのです。
渥子さんが、記念写真を撮るときに無意識にとる姿勢や表情は、幸せな夫婦生活の証であり、渥子さんが生きてきた人生の証といえるものでしょう。
認知症によってさまざまな記憶が消えていくなかで、一時はこの証も消え去ったかに思えました。しかし、消えたわけではなかったのです。そのことに思い至った瞬間、私は認知症をめぐる大きな疑問の一つに解答を得た思いがしました。
その疑問とは「認知症になると、私という人格は消えてしまうのか?」ということです。私はいま、その疑問に対して自信を持って答えられます。
認知症になると人格が消える、というのは誤解です。
もし私が認知症になったとしたら。「私の名前は市川衛です」「3年前にこんなことをしました」ということは忘れてしまうかもしれません。
でも私が私の人生を歩んだことによって得た「私らしい感じ方」や、「私らしい行動」は残ります。
なぜならここまで述べてきた通り、それらを決定する大きな要素となる手続き記憶やプライミングなどは、認知症によって影響を受けづらいことがわかっているからです。
もしかしたら、そうした独自の感じ方や行動が病のダメージを受けても消えないのは、それが「人格」の本質だからなのかもしれません。
認知症になると性格が変わる、人格が消えると言われます。確かに場合によっては、もはやその人はいなくなった、人格は消えたとしか思えないような振る舞いをご本人がすることも少なくないかもしれません。
でも、さまざまな科学的な研究を取材した結果としても言えることは、認知症がかなり重度になったとしても、人格の本質的な部分は必ず残ります。
もしそれが感じられないとしたら、とても奥深くに隠れてしまっているのかもしれません。それを引き出せるかどうかは、周囲がその人のことをどのような視点でとらえ、どのような形で接するかということにかかっています。
とは言ってもその努力を、ただでさえ疲れている家族などの介護者に望むのは酷かもしれません。阪田さんも、経験を積んだスタッフの支えと助言があったからこそ、そうした部分に気づくことができました。
このあとの章では、介護をしている人の負担がどうしたら減るのか、そして、社会がどのように支えればよいかについても、具体的に考えていきたいと思います。
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長々と申し訳ありませんでした。
もしご興味を持っていただけたとしたら、下記の本を読んでみてください。
ご購入いただく必要はありません。至らぬ内容ですが、有難いことに、少なからぬ図書館に所蔵していただいているようです。
たまたま図書館に足を運ばれたとき、この題名で検索してみてくださったら、心からヨロコビます。ご感想などいただけたら、飛び上がります。
今年、どんな医療健康記事が読まれたか?振り返ってみました。
2016年も、もうすぐ終わりですね。今年からYahoo!個人のオーサーに加えていただき、自分の専門性である医療・健康系に関して30本余りの記事を書きました。
ほとんど読まれなかったものもあれば、有難いことに大きな反響をいただいたものもあります。年間通して振り返ると、どんな記事が関心を生むのか?ということが見えてきました。
せっかくですので、自分の記事の中で多くFB上でシェアされたもの(12月30日現在)を5つ抜き出して、その要因を考えてみました。良かったらご一読下さいm(_ _)m
第5位 3873シェア
今年10月、いまの日本の医療を俯瞰できるデータとして、NDBオープンデータが厚生労働省より公開されました。
記事内で書いた通り『画期的な取り組み』と個人的には思うのですが、あまりにも話題になっていなかったので、「こうやれば使えるかも!」と自分なりに考えて書いてみたものです。おかげさまで、大きな反響をいただきました。
ポイントは、なんとなく「シップって、使われすぎじゃない?」と少なからぬ人が思っていたことを、数字にして示したことだと思います。シップの消費金額が1300億円を超えているとか、その7割以上が70歳以上によって消費されているということは、自分にとっても新しい発見でした。
第4位 4010シェア
初めてヤフートピックに取り上げていただいた記事です。ツイッターに流れてきた話題を読んで、「本当かな?」と思って調べたら、「本当だった!」と驚いたので、自分が調べていく過程をそのまま記事にしました。
実は後日、担当の編集さんに「なんでトピックに取り上げられたのでしょう?」と聞いてみたのですが、個人的な意見と断ったうえで(ヤフーさんでは書き手を担当する編集者とトピックの採用を決める編集者を完全に分けているため)「その日が、やけに暖かくて、花粉のことが気になる日だったからではないでしょうか」ということでした。
そのことが気になる(知りたくなる)タイミングで伝える。当たり前のことですが、読んでもらう最大のポイントなのだと、と改めて気づきをもらいました。
第3位 5146シェア
私自身が、子供時代から大ファンだった九重親方(元横綱 千代の富士関)が亡くなった日に書いた記事です。
あれほど強く、輝いていた千代の富士さんがなぜこれほど早く亡くなったのか?理不尽な思いと悲しみを感じつつ書いたからこそ、共感を得られたのかもしれません。
もちろん感情だけで書くのは論外ですが、データだけではなく、個の感情を出して伝えることが、共感(≒シェア)を呼ぶ一つのポイントなのではないかと思います。
第2位 5496シェア
胃がんバリウム検診で「陽性(要注意)」とされても計算上、99%は正常であることを書いた記事です。世の中で当たり前に行われていることでも、イメージとは違う実態があることを伝えたいと思って書いたものでした。
第4位の花粉症の記事では「タイミングが重要」ということを実感したのですが、一方で、それこそ10年以上前から知られていることでも、いまの時代から見た切り口でしっかりと伝えれば、大きな反響を得られるのかもしれません。
今までは「これって新しいの?」ということを凄く気にしていたのですが、そうではなくとも、今のタイミングで気になることにフォーカスして丁寧に書けば共感を生むことはできるのではないか?と気づきをいただきました。
第1位 15000シェア以上
医療や健康のテーマとは少しずれる内容ですが、この1年で最も拡散した記事になりました。とはいえ、「認知症を抱えても住みやすい社会」や「世代間の断絶」など、いま個人的に気になっているテーマとも密接にかかわるものだと思い、記事を書きました。
きっかけは、10月~11月にかけて、テレビや新聞で「高齢ドライバー」の起こした事故が大きく報道されているのを見たことです。しかし報道では実数の上昇が伝えられるばかりで、それを論じるために必要な年齢調整件数や、世代間の比較データがないことが気になりました。
「じゃあせっかくだから、他の年代の人に比べて、どのくらい多いんだろう?」ということを調べてみようと思い、公開データをググってみたところ…。そこには、自分が抱いていたものと正反対のデータがありました。そのときに感じた「驚き」を、そのまま記事化したものです。
この記事に関しては、アップした瞬間、これまでにない勢いでFB・ツイッターでのシェアが広がっていきました。
おそらくは私と同じように、「なんとなくイメージで理解していたことを、裏切るデータが出てきた」ことに感情を動かされた方が多かったのだろうと思います。だからこそ「このことを、他の誰かにも伝えなければならない!」と思っていただいたのではないでしょうか。
何かのニュースが相次いでいるとき、「そうだ、そうだ!!」とか、「怖いねえ…」という感情を抱くのは当然のことです。
でもその一方で、伝える仕事をするものにとって必要なのは、ほんの1歩だけ踏み込んで疑問を持ち、もとデータ(1次情報)に当たってみること。これまた「当たり前」のことですが、改めてその重要性を認識した次第です。
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長々とお読みいただき、ほんとうに有難うございました。
ご共感いただいたことも、違和感を覚えられたこともあると思います。ご感想・ご指摘いただければ幸いです。
新年も、何卒宜しくお願いいたします
医療健康コンテンツ 質を高めるためにはどうしたら良いのか?
いま、Welqの事件をきっかけに、ネットにおける医療健康コンテンツの質が問題視されています。
では具体的に、質を高めるために何が必要とされているのでしょうか?
よく言われるのは、「医師など専門職の監修をつければよい」という意見です。
でも下記ブログでも指摘されている通り、逆に「監修さえついていれば良い」と思考停止することも、結局は本質的な解決から遠のいてしまう要因になるのかもしれません。
「最低ライン」も決められないまま医療健康コンテンツが創られている
では、何が本質的な問題なのか?
個人的には、医療健康の情報を発信する人が、「記事を書く上で、このくらいは知っておこう」という最低限のモラルや常識がきちんと規定されていないことにあると思います。
以前、若手の制作者たち(マスメディアで日常的に医療健康コンテンツの制作をになっている現場の一線のクリエイターたち)に、『ねえ、エビデンスのピラミッドって言葉、知ってる?』と聞いたことがありました。
その場には20人ほどの人がいたのですが、問いに対して「知っている」と答えた人はゼロ。ちょっと寂しい結果でした。。。
★エビデンスのピラミッドとは、下記のような図で表される、どのような研究デザインのものは信頼性がより高いかについて示したものです。
国立国際医療研究センター「初期臨床で身につけたい臨床研究のエッセンス」Vol.2 第4章より
エビデンスのピラミッドは、いま取材している研究がどのくらい「信用に足るのか」を考えるうえで重要な要素ですので、個人的には、医療健康関連の記事や番組などのコンテンツを制作したいと思う人間であれば、当然知っている基本の知識であって欲しいと思います。
でも現実としては、このような基本の「キ」に属するような常識が浸透しないままに医療健康コンテンツが作られている状況が生まれている。なぜなのでしょうか?
理由を推測するに、次の2点があるのかもしれません。
1)「学ぶ機会」が存在しない
2)何を学べばよいのか、標準的なカリキュラムがない
1)について
わたし自身、これまで10年以上医療健康コンテンツを制作してきましたが、上記紹介した「エビデンスのピラミッド」みたいな最低限必要な知識を制作の場で教えられることはありませんでした。
たまたま大学時代に医学部だったので、その知識を持っていただけのことです。
そのようなバックグラウンドがなかったとしたら、もしかすると、自分も同じように、最低限の知識も知らないままでコンテンツを作っていたかもしれません。
2)について
学ぶ機会が存在しない、ことのさらに背景を考えると、そもそも医療記事を書く上で、「どんなことを最低限学ぶべきか?」という点が明確になっていないことが上げられると思います。
例えばプログラムを書くエンジニアで考えた場合、様々なマニュアルや書籍が出版されており、ある程度の「正解」にたどり着きやすそうな気がします(素人の考えですみません)。
でも、「医療記事」に関しては、「書き方」を示したマニュアルや書籍はこれまで(不勉強のせいかもしれませんが)目にしたことはありません。
諸外国の状況
たとえばアメリカでは、AHCJ(Associtation of Healthcare Journalists)という団体が、上記の1)2)を埋めるための教育・研修業務を行っています。
この団体では、いわゆるハンドブック(教科書)を作ることで、医療健康情報を報道するなら、最低限これだけは知っていてね!ということを伝えようとしています。
どのような記事がより「望ましい」のか 基準をみんなで考えよう
こうした必要最低限のモラルや常識がまとまったガイドブックがあることは、コンテンツの質を議論する上で必要不可欠なのではないかと思います。
何がけしからんコンテンツで、何がそうではないのか、明確な定義もなく侃々諤々されているいまの状況を、ほんの少しでも変えることにつながるのではないでしょうか。
今回、Welqの件をきっかけに問題になってしまったことを受けて、医療健康の情報の質を1mmでも向上させるために出来ることはないか。
いま同じ志を持つ医療者とメディアの有志に声をかけあって、いま何が必要か、何ができるかを定期的に話しあう場所を作りはじめています。そのなかで、上記のようなハンドブックの日本語版を作ってみても良いのかもしれません。
ある日とつぜん、いのちの危機を迎え、必死で情報を探す人が間違った知識を得ないで済むように。
自分にできることは僅かですが、医療健康の情報を発信する人が「最低限、このくらいは知っておこう」というモラルやスキルの内容を規定し、レベルアップに努めるような動きが広がるよう地道に取り組んでいこうと思います。
Welqさんのこととか、いま起きている色々なことを一過性にしないために
まさか、と思うほどに、ここ1週間で話題になってしまいました。
医療・健康系の、あのキュレーションメディアのこと。
記事の引用と盗用のギリギリを組織的に狙ったこととか、監修がついていなかったことなど、既に指摘されている問題点はまさにその通りだと思いますし、ぜひ当該企業には反省と改善を進めていただきたいと思っています。
ただ一方で、「なぜ、このメディアがそれほどまでに支持されたのか?」ということを考えた場合、単にSEOが上手だったからだけではないと思うんです。
私が近しい人たちとこの問題について話したときに、Welqの記事は問題があったことを理解し怒りを覚えつつも、「でも・・・、記事自体はわかりやすかったんだけどね」という声を少なからず聴く機会がありました。
キュレーションメディアが支持される背景として「ユーザーがどんな情報を求めているか」「その情報は、ユーザーから見た場合に理解したり、共感したりできるものなのか?」という点にこだわっている、という部分はあると思うんです。
「情報の非対称性」という言葉があります。
医療専門家(医師や看護師、薬剤師など)は、それがそもそも資格を求められる仕事ですから、非常に多くの知識や経験を持っています。
一方で、私たち一般の人間は、それぞれの分野でプロフェッショナルである人でも、いざ病気になったときには、その病気自体の知識や経験があるわけではありません。
医療を含めた何らかのサービスをやり取りする際に、サービス提供側と受益者側の知識に偏りがあると、情報が豊富な側(この場合だと医療サービス提供者)に圧倒的に有利な状況が生まれます。
ある意味では仕方のないことですが、それが行き過ぎると、ときに問題を生んでしまうこともあります。(患者にとって最適な決断ができなくなる、利益相反のもとになる、など)
そこでいま医療の分野においては、医療専門職と患者側の「情報の非対称性」をどうしたら減らせるのか、というのが世界的なトピックになり、熱い議論が行われている最中なわけです。
だからこそ今回の事態を、「けしからん一部メディアの問題」とするのではもったいないと思います。
今回の事態を通して、「わかりやすく」「ユーザー目線でお役に立つ」情報へのニーズが、少なくとも医療の世界では強く存在することが浮き彫りになったわけですから、そのニーズを受け止めつつ、いかに正確な情報を出していけるのか、という点を議論していくことが求められているのではないでしょうか。
というわけで、いま有志で開催している勉強会で、今月17日(土)に、それをみんなで考えよう!というイベントを行うことにしました。
今回、図らずも話題になってしまったトピックに関し、前向きな問題意識を持っていらっしゃる方ならどなたでもウェルカムです。何かの課題解決に結びつくかどうかはまだ未知数ですが、ぜひご意見だけでも伺えれば幸いです。
しつこいですが、今回の事態を「けしからんメディアの糾弾」で終えるのではなく、「より良い情報発信の道筋」を探る場にしたいと思っております。
よかったらご参加くださいm(_ _)m
「高齢ドライバーの事故は20代より少ない」への反響から
一昨日Yahoo!Japanにアップした記事が、思いのほか多くの反響をいただきました。
ちなみに、記事はこちら。
22日夜の時点で、FBで10000シェアを超えています。過去最高・・・
いま高齢ドライバーの事故が多く報道されています。
記事の中には、「◎年前と比べて65歳以上の事故の件数が増加している」という情報が書いてあるものもありました。
それはもちろん、その通りなのですが、日本社会全体が高齢化しているので、件数が増えるのは当たり前かもしれません。むしろ変わらなかったら「ものすごく減っている 」ということです。
それで、もう少しだけ詳しくデータが知りたい!と思い、警察庁がHP上で公開している統計をもとに思ったことを書きました。もとデータは下記からダウンロード可能ですので、よかったら見てみてください。
さて記事に対しては、コメント欄・SNSなどで本当にたくさんのご意見をいただきました。「参考になった」などご好評を頂くものもあれば、「分析の至らなさ」をご指摘いただいているものもあり、全て勉強になりました。
そのなかで、特に心に残ったコメントを2つご紹介します。
認知症に対する真摯な取り組みを続けられている、医師の笠間 睦さん(榊原白鳳病院)からは以下のコメントをいただきました。(個人的には、笠間さんが以前朝日新聞のサイトに連載されていたコラムが大好きだったので、本当に光栄です)
2017年3月12日に「改正道路交通法」が施行され、免許更新時の検査で「認知症の恐れ」と判断されれば医師の診断書を提出しなければならなくなります。
そこで私が最も心配するのが、この制度が周知されますと、もの忘れ外来を受診しようと思案している方が、認知症と診断されると運転免許の取り消し処分になることを知ってしまい受診抑制に繋がり、早期診断・早期治療というベネフィットが損なわれてしまいかねないという懸念です。(中略)
英国におきましては、認知症になったら実車テストがあり、5マイル(約8㎞)走行することができれば運転可と判断されている(https://medqa.m3.com/doctor/showForumMessageDetail747510.do)と伝え聞いております。
(中略)
私からの具体的な提案としましては、免許更新時の検査で「認知症の恐れ」と判断され医療機関を受診された方に対して医師は、CDRが「1」か「2」だけを判断すれば良い(=これなら「かかりつけ医」でも可能であり認知症専門医でなくとも診断書を発行できる)ということにして診断する医師の負担軽減に配慮すべきだということが1点。
そして、CDR2と判断されれば免許は取り消し。ただし、CDR1の場合には、全例において実車テストを実施し、合格すれば1年ごとの審査を条件に運転免許を交付するといったような具体案です。
【注】CDR(Clinical Dementia Rating)
認知症の重症度を評価するための方法。記憶、見当識、判断力と問題解決、社会適応、家族状況及び趣味、介護状況の6項目について、患者の診察や周囲の人からの情報で評価する。それらを総合して健康(CDR0)、認知症の疑い(CDR0.5)、軽度認知症(CDR1)、中等度認知症(CDR2)、高度認知症(CDR3)のいずれかに評価する。
http://www.aricept.jp/index2.html
来年3月に改正道路交通法が施行されます。これまでも75歳以上のドライバーは免許更新の際に臨時の認知機能検査を受ける必要があったのですが、これからは、迷走や信号無視などの違反を犯した際にも臨時の認知機能検査を受けることになります。
こうすることで、認知症に気付かず運転してしまう人を、重大事故を起こす前のインシデントの段階で拾い上げようというわけです。
具体的には、臨時の認知機能検査で記憶力や判断力が(低い)(やや低い)(問題なし)のうち「低い」に分類されると、医師の診察を受け、認知症かどうかの診断書を提出しなければならなくなります。
ただ笠間さんが心配されているのは、「認知症だと運転免許はく奪」というイメージが強くなりすぎた場合、リスクを抱える人が医療機関を受診するのをためらいはしないか?ということです。
また制度上、認知症かどうかの診断は専門医でなくても下せることになっていますが(おそらく専門医だけでは数が足りないと予測されているからです)、運転が生活のかなめになっているケースも多い中で、免許取り消しにつながる判断を専門でない医師が下せるのだろうか?という声もあります。
笠間さんが言われている、「認知症だったら一発アウト」ではなく、もっと弾力的な運用をしつつ、本当にリスクの高い人を拾い上げていくほうが良いのではないか?と言う視点に新たな気づきをいただき、とても参考になりました。
【参考】改正道路交通法の概要
https://www.npa.go.jp/koutsuu/menkyo/kaisei_doukouhou/leaflet_A.pdf
また現在、スタンフォード大学で盛んなデザインシンキングの研究・実践で知られる見崎大悟さん(工学院大学准教授)からは、下記のコメントを頂きました
高齢ドライバーの問題をデザイン思考的に考えるとどうだろう?
(中略)
世間が注意を喚起するトップダウンではなく、ドライバー自らが気づき行動をおこすような仕組みを考えたいですね。「誇り」の象徴とは、まさに重要なインサイトの一つだと思います。
デザインシンキングについてはこちら(英語です)
d.school: Institute of Design at Stanford
なぜ高齢者がアクセルブレーキの踏み違い事故を起こしてしまうのか?ということを考えた場合、そもそもアクセル、クラッチ、ブレーキのペダルが隣接している車のデザイン自体も、その元凶のひとつだということは容易に想像できます。
高齢者が運転することが一般的ではなかった時代のデザインに固執するのではなく、新しい時代に合わせたクルマが開発され、それが安価に提供されれば、死亡事故をより減らせるかもしれません。
免許返納に関しても、上から押しつけるのではなく、運転者自身が率先して免許返納をしたくなる仕掛け、というものが作れたら最高ですよね。
高齢ドライバーに関する話題は「認知症」や「高齢でも安心して暮らせる地域づくり」など私にとって重要なテーマと密接に関わっているものだと改めて実感しました。
今後も継続して取材を進めたいと考えています。