医療の「翻訳家」を目指して【市川衛】

医療・健康の難しい話を、もっとやさしく、もっと深く。

大切なことを伝える

おお!明日(というか今日)は年に1度の東大の講義だった。やばい準備しきれてねえ。というわけでこの時間です。

東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻(専門職大学院) 医療コミュニケーション学分野


※コミュニケーション(伝える力)は、ときに手術や薬と同じように、何かを変えることができる
※常に「誰を幸せにしようとしているか」を心に留めて発信
※職種を超え、みんなで楽しく悩み議論し続けよう

 

わたし普段、酒飲んでくだらないことばかり言っている人間なのですが、なんでか我慢してお付き合いくださる人たちの御蔭で、どうやらこういうことが大切なんだと、おぼろげながら気が付くことができつつあります。


私の50~500倍ほど優秀な東大の博士課程のみなさんに、くだらないなりに自分が気付きえたことをお伝えして、みなさんが将来、「誰かを幸せにしてえ!」と思ったときの「引き出し」になることをお伝えできたらいいな。いいな。がんばるぞ。

「予防をきちんとしない人は医療保険を使うべきではない」というのは正しいか?

BLOGOS編集部のツイッターによれば、一昨日ヤフーで出したオバマケアの解説記事が、きのうの人気記事1位だったらしいです。

 

なんで?と思ってちょっとググってみたら、BLOGOSさんが告知頑張ってくださったのと、BLOGOSの記事がNEWSPICKSにピックされ、それが閲覧増につながった流れもあったみたいですね。

 

newspicks.com

 

多様なかたに読んでいただけて本当に嬉しい限りです。

 

ただNewsPicksのコメントを読んでいてちょっと気になったのが、堀江貴文さんからいただいた以下のコメント。(もちろん、わたしみたいな人間の記事に、真摯なコメントをくださったことだけでも畏れ多いことということは理解しつつ)

国民皆保険はいい事だと思ってる日本人が多いが私はそうではないと思っている。まず、病気になっても格安で治してもらえると思うから予防に力を入れない。これは予防を軽視している人は保険が使えないようにすればよい。が、おそらく医師会などが猛反発してそうはならない。もう一つは特に高齢者や生活保護受給者が薬を貰いすぎる問題。そしてあまりにもカジュアルに病院に行ってしまう風潮を作り出している。この辺を解決しないといけない。

「予防を軽視している人は保険が使えないようにすればよい」という、いわゆる「自己責任論」は一見正しそうに見えるのですが、過去の研究から考えると、おそらく思ったような効果(健康増進や医療費の抑制)は出ない可能性が高いです。

 

そのあたりは、ハーバードの津川友介先生の見事な考察がありますのでぜひ。

healthpolicyhealthecon.com

健康に対して経済的なインセンティブを与えることは、格差を広げてしまうリスクがあるだけではなく、そもそも健康増進につながらないので、二重の意味であまり好ましい政策ではない

健康の責任を個人に求めること(自己責任論)の問題点 – 医療政策学×医療経済学

 

堀江さんはいま予防医療の啓発に力を入れておられて、それがゆえのお言葉だと思うのですが、患者・市民に対してインセンティブ(もしくはディスインセンティブ)を与えて健康を実現しようという努力は、これまでの取り組みではなかなかうまくいっていない、というのが正直なところのようです。この方法で健康を実現しようと考えるのであれば、制度設計においてかなり精緻に工夫しなければならなそうです。

 

誤解があるといけないので強調しますが、予防医療に力を入れることは、病気になる人を減らし、社会全体の幸せを実現するという意味で素晴らしいことです。堀江さんのような著名な方が、そこにお力を入れてくださるのは、とても素晴らしいことです。

 

でも、「やりたくない人には罰を与えたほうが社会全体の利益になる」などの、過去の研究ではむしろ否定されている考えをもとに行うと、良かれと思って進めたことなのに、本来望んでいた結果が達成できなくなってしまうかもしれません。

 

予防医療については、期待感が強い分、残念ながら少し誤解されている部分もあると思います。自分なりにさらに深く取材して、また何らかのアウトプットにつなげたいと考えています。

雑記07/05/2017

連休最終日。

目覚めて寝床の脇のスマホに手を伸ばし、公開予定のヤフー個人の原稿を最終チェックする。

オバマケアの改廃案が米下院を通過したとのニュースが話題になっていた。

でも、「そもそもオバマケアってなんだろう」とか、「なぜ見直すんだろう」とか、「それを知ることが、自分にとってどんな役に立つのだろう」とかの、本当に基本的な疑問。ニュースには、おそらくは字数の制限で言及されないそんな疑問にもしも補助線を引けたなら、それを知ることの意味をもっと深くわかってもらえるんじゃないだろうか?(なぜなら自分自身が何の専門家でもなく、そんな基本的なことも知らないからなのですが)

そんなことを思い、一昨日・昨日と発熱にうかされながらもチマチマと調べ、書いた記事です。

news.yahoo.co.jp

連休最終日にこんなにクソマジメでイヤになるほど長文の記事。誰も読んでくれないんじゃないか…、と思いつつアップ。でも、自分なりには満足できる内容になってよかった。あとは、たった1人でも読んでもらえたらいいな・・・。

と、思っていたらいつのまにかヤフーさんがトピックに選んでくれた。ありがたい。

news.yahoo.co.jp

コメント欄、ツイッターなどでいただく反応、一つ一つ参考になる。賛同していただけるもの、ご批判くださるもの、どれも意見だ。記事にも書いたけれど、「正解」はないのだと思う。極端に流れることなく多様な意見をお互いに聞くことで、いまより1mmでも「より良い」道を探せたら良いなと思う。難しいことだけれど。

連休のなかで自分に課していたDutyをいちおう達成できて少し気持ちが良い。来週以降は仕事も忙しくなるし、学会や講演、講義も控えている。気合入れていこう!!

雑記05/05/2017

昨晩、発熱。39度近くまで上がる。

インフルエンザかと思うが迅速診断キットでは陰性。だるいのでとにかく寝ていると、早朝、かなり体調が改善してきた。

インフルエンザじゃないのに、こんなに発熱することってあるのかな?と思って少し調べてみると、ある医師がツイッターで次のようにつぶやいていた。

 

 私の状況と、完全に合致する。なるほど、「そういうウイルス」なのかもしれない。

 

体調も改善してきたということで、たまった原稿仕事を仕上げようとする。

「空気調和・衛生工学」誌から頼まれていた特集原稿10000字。ずっと心のなかにトゲのように刺さっていたが、今日こそ仕上げるぞ。

FBメッセージで、勝手に「盟友」と思っている友人より連絡。相変わらずの高き志に感銘を受ける。

つらつら原稿を書いていたら13:00近く。急いで身支度をして銀座へ。

「メディアと医療をつなぐ会」で知り合った齋藤益子先生(宮崎県立看護大学)と銀座「木曽路」で会食。私のようなものにも丁寧に接してくださる人柄に恐縮する。8月に宮崎で「日本思春期学会」の学会長をされるとのこと。ご自分のところで事務局をされているとのことで、こまごましたご苦労について伺う。思春期学会のいまのトピックは「10代の自殺」ということで、自分のテーマにも近いし、取材したい。

昼食を終えて家に戻り、午前の続き。

メールあり。去年制作した番組のデータを利用した論文の査読修正の問い合わせが共著者(ファーストオーサー)より。お忙しいところ、本当にありがたい。わかる範囲で答えられることを、すぐさま返信。

夕食前に学会誌原稿完成。画像のキャプション、英文概要、プロフィールなどこまごました部分も書けて一応完成。締め切りは来週なので、連休明けにもう一回じっくり読んで送ろう。

やっと仕事が自分のスケジュールに追い付いてきた。連休中に、ヤフー個人の記事を1つでも書けると楽になるのだけど・・・。

「社会保障費の増大」みたいな他人事を、どうしたら「自分ごと」にできるのでしょうか

地道に続けている連載の、最新号が発行されました。

 

今回は自分自身、本当に悩んだ内容でした。

 

社会保障費の増大のなかで、根本的に医療福祉のシステムを変えざるを得なくなる時代がくるのは避けようがありません。

 

だとすると、それを「誰かのせい」と思って不満を募らせるより、「自分ごと」と捉えてよりよく受け入れる道を探ったほうが得なんじゃないかと、素人なりに思っています。

 

その考えはしかし、どうしても「共感」を得られにくいものです。どうすればそのアイデアを、共感を持ってお伝えできるのだろうか、迷い迷いながら書いたものです。良かったら下記リンクからお読みくださいませ。ご意見、ご叱咤下さったら幸いです。 

https://graphication2.s3.amazonaws.com/html/008/index.html#/spreads/72

 

 

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ウソや誇張なしに、シェアされる方法とは

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去年3月からネット上での情報発信を細々と始めさせていただき、おかげさまで少しずつシェアでの閲覧数が増えてきました。

迷い迷いながら書いている記事を、優しくシェアしてくださる方がいることは有難い…。と、いつも心から感謝しております。

 

同じ媒体で発表しているなかでも、だんだんとシェア数が増えていっているわけですから、何か、自分の記事のなかに変化が生まれたのかもしれない。

と思って、過去の自分の記事を読みながらつらつら考えてみたところ、次のようなポイントがあるのでは?と気づきました

ホットな話題を入口に

まあこれは、鉄則というか初歩の初歩というものだと思うのですが、受け取り側が知りたくなっているタイミングで情報を届けるということが大事なのだと思います。「上手な医学論文の読みかた」というテーマでは振り向いてくださる方が少なくとも、「カゼにビタミンCが効くかどうかって、どうやったら確かめられるんでしょうか?」という題名であれば、友達にシェアしたくなるかもしれません。

説教ではなく共感

どうしても記事って、思いを込めて書いている人であればあるほど「こんなに良い情報があるのだから、知ってほしい!!」という気持ちになります。それは自然なことなのですが、しかし受け取る側からすると、ちょっと熱意に押されてしまうというか、「上から目線」に感じられてしまうかもしれません。

そこで自分なりに考えた方法というのは、「まず疑問を立て、検証していく過程そのものを記事にする」というやり方です。そうすれば、受け取り側にも、その過程を追体験することにより、同じ目線で情報に興味を持ってもらえるかもしれないなと思っています。

正確さを、わかりにくさの「言い訳」にしない

「正確さ」は言うまでもなく、何を措いても大事なことです。ただ、「正確であればわかりにくくても良い」というのは、私個人としては良くない態度だと思っています。

専門家同士であればその態度で良いと思うのですが、「発信」ということを目的とするのであれば、専門用語を不用意に使うことで多くの人に「届く」チャンスを失うばかりでなく、「誤った受け取り方」をされてしまうリスクすら生じさせてしまいます。

正しいことは当たり前として、その正しさをどうすれば一発でわかるように表現できるのか、読む側の立場に立って、死ぬ気でその工夫を考えることが大切なのだと思います。

「誰に、どう幸せになってほしいか」を常に意識する

これは当たり前のことなのですが、ネット上の記事を書いていると、ともするとアクセス数やシェア数が最優先になってしまう危険が常にあります。わかりやすく評価されている気持ちになれるからです。

もちろんそれは大事だけれど、でも「なぜこの記事を書くのか」を振り返った時に、何より大切なのは、読んでくださった人がほんの1mmでも幸せになれたかということのはずです。個人的な経験では、それを突き詰めた時に、驚くほど大きな反響(シェア)が生まれるような気がしています。

良かったら語りましょう

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2月18日(土)、上記に書いたようなことを、みんなで前向きに議論しようという研究会があります。想いある尊敬すべき雲の上のような発信者たちが集まります。その端くれに加えていただけることになりました。

もしこの記事を読んでちょっとでもご興味を抱いていただけたとしたら。。。

当日、お話し出来たらと思います。良かったら応援するつもりで、参加してやってください。

FormMan: 2月18日開催 第50回記念メディアドクター研究会(公開シンポジウム)参加申し込み

「認知症になると、人格は消えるのか?」自分なりに考えたこと

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認知症になると、人格は消えてしまうのでしょうか?

 

たとえば認知症の原因となる病のひとつ「アルツハイマー病」になると、記憶力が低下してしまいます。場合によっては、配偶者や子どもなどの親しい家族の顔を見ても、その名前がわからなくなってしまうこともあるかもしれません。

 

それまで積み重ねてきた人生の素晴らしい経験や、愛しい人との記憶も失われてしまう。私という人格そのものも、消え去ってしまうのでしょうか?

 

当事者ではない私にとって、本当のところは、わかりません。

 

でも、ほんの少しでも、その疑問を考察するヒントを探したい。5年ほど前、そう思って取材をし、番組と本にまとめたことがありました。

 

***

 

先日、友人から「母親が認知症になり、少しずつ、以前と変わってきている気がする。どうしたらいいんだろう?」という相談を受けました。

 

いつも自分のことより、他人のことばかり考えている友人。

 

大切なお母さんの今後にどれだけ心を痛めているだろうかと想像すればするほど、何を言っても嘘くさいものになってしまいそうで、うまく答えることができませんでした。

 

どうしようかどうしようかと思い悩み、結局したことは、5年前に書いた本を贈ることでした。

認知症になっても、消えない記憶がある

例えばアルツハイマー病になると、記憶力が衰えるというのは聞いたことがあると思います。でも、「衰えやすい記憶と、衰えにくい記憶がある」ということは、あまり知られていないことかもしれません。

 

衰えてしまいやすいのは、「言葉にできる記憶」です。

例えば「昨日、リンゴを買った」というような、できごとに関する記憶。

例えば「この顔の人は、●●さんである」というような、意味に関する記憶。

私たちが記憶といった場合にすぐ思いつくのは、上記のようなものかもしれません。

 

でも記憶の中には、言葉に出来ないものがあります。

それこそが、認知症になっても衰えにくい記憶です。

 

たとえばその一つは「手続き記憶」というもの。

 

自転車に乗った時のことを、想像してみてください。

 

たとえ10年間、自転車に乗っていなかったとしても、サドルに腰かけペダルを回した瞬間に、うまくバランスをとることができます。でも、どのようにしてバランスをとっているかを言葉で説明することはできません。

 

また、「時速10km以下のとき、ペダルを何回転くらいにしておけば、バランスをとりやすいの?」と問われると、言葉にして答えることができません。(正確に言えば、とても困難です)

 

こうした、言葉にできない記憶は、認知症を引き起こす病にかかってしまったとしても、衰えにくいことがわかっています。

 

言葉にできない記憶は、たとえ病になったとしても残り続ける。世界中で過去に行われた研究により繰り返し実証されているという、その事実を知ったとき。

 

とつぜん私の中に、取材でお話を聞かせていただいた、あるご夫婦の姿が流れ込んできました。その映像が浮かんだ瞬間に、いままで迷いながら調べ、色々な人にお話を聞かせていただいた内容が、ひとつにつながりました。

その瞬間のことを忘れてしまわないように、どうしても何かにとどめておきたくて、夢中で本を書きました。

 

***

 

長々とすみません。

友人に、「この本を贈ろう」と思い至ったことをきっかけに、久しぶりに読み返してみて、あのときの気持ちを思い出しました。

 

自分の文章を引用するなんて、キモイにもほどがあることはわかっているのですが、勇気をもってその内容を、下記に記録しておきたいと思います。よかったら、お読みくださいませ。

 

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写真は、私が取材の時に、お二人に「記念撮影をさせていただけませんか」とお願いして撮らせていただいたものです。

落ち着いた時間を取り戻したご夫婦。渥子さんが阪田さんの腕をとり、二人で写真に収まっています。

 

どちらも、とても素敵な笑顔をされていると思いませんか?

 

ご夫婦の取材を終えてのち、仕事場でぼんやりとこの映像を見ているうちに、はたと気づいたことがありました。渥子さんの姿や表情が、あるものとそっくりなのです。

それは取材中に見せていただいた、何十年も前の夫婦の記念写真でした。腕を組み、ご主人のほうへちょっと首を傾けて笑うその姿は、白黒写真の中でほほ笑む、若かりし頃の渥子さんの姿と全く同じだったのです。

 

渥子さんが、記念写真を撮るときに無意識にとる姿勢や表情は、幸せな夫婦生活の証であり、渥子さんが生きてきた人生の証といえるものでしょう。

認知症によってさまざまな記憶が消えていくなかで、一時はこの証も消え去ったかに思えました。しかし、消えたわけではなかったのです。そのことに思い至った瞬間、私は認知症をめぐる大きな疑問の一つに解答を得た思いがしました。

 

その疑問とは「認知症になると、私という人格は消えてしまうのか?」ということです。私はいま、その疑問に対して自信を持って答えられます。

 

認知症になると人格が消える、というのは誤解です。

 

もし私が認知症になったとしたら。「私の名前は市川衛です」「3年前にこんなことをしました」ということは忘れてしまうかもしれません。

 

でも私が私の人生を歩んだことによって得た「私らしい感じ方」や、「私らしい行動」は残ります。

 

なぜならここまで述べてきた通り、それらを決定する大きな要素となる手続き記憶やプライミングなどは、認知症によって影響を受けづらいことがわかっているからです。
もしかしたら、そうした独自の感じ方や行動が病のダメージを受けても消えないのは、それが「人格」の本質だからなのかもしれません。

 

認知症になると性格が変わる、人格が消えると言われます。確かに場合によっては、もはやその人はいなくなった、人格は消えたとしか思えないような振る舞いをご本人がすることも少なくないかもしれません。

 

でも、さまざまな科学的な研究を取材した結果としても言えることは、認知症がかなり重度になったとしても、人格の本質的な部分は必ず残ります。

 

もしそれが感じられないとしたら、とても奥深くに隠れてしまっているのかもしれません。それを引き出せるかどうかは、周囲がその人のことをどのような視点でとらえ、どのような形で接するかということにかかっています。

 

とは言ってもその努力を、ただでさえ疲れている家族などの介護者に望むのは酷かもしれません。阪田さんも、経験を積んだスタッフの支えと助言があったからこそ、そうした部分に気づくことができました。

 

このあとの章では、介護をしている人の負担がどうしたら減るのか、そして、社会がどのように支えればよいかについても、具体的に考えていきたいと思います。

 

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長々と申し訳ありませんでした。

もしご興味を持っていただけたとしたら、下記の本を読んでみてください。

ご購入いただく必要はありません。至らぬ内容ですが、有難いことに、少なからぬ図書館に所蔵していただいているようです。

たまたま図書館に足を運ばれたとき、この題名で検索してみてくださったら、心からヨロコビます。ご感想などいただけたら、飛び上がります。

books.rakuten.co.jp