村上智彦先生の思い出 「全力少年」の生き方
今月11日、村上智彦先生が亡くなられました。
当時のわたしの未熟さから、完璧に伝えきれたかというと正直、自信はないです。ただ矛盾や閉塞感が絡まりあった地域医療の現場で、熱意と実行力で次々と新しい取り組みを打ち出し、地域そのものの意識やしがらみを根底から変えようとした姿は、いまも鮮烈に記憶に残っています。
その経験はもしかすると、その後、わたしが医療や健康の情報を発信することを一生の仕事にしようと考えたきっかけの一つになったのかもしれません。
村上先生の訃報に接し、最後のご著書となった「最強の地域医療」を拝読して心に去来した思いを書き残しておきたいと思います。
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本の内容は上記サイトから引用
読んでみた正直な感想です。
「その通り」と心から頷ける内容が大部分の一方で、私のようなものが不遜とは思いつつ、「正直、それは言いすぎなんじゃないでしょうか…?」と首をかしげる部分もありました。
でも、よくよく考えると、そこも含めて村上先生の魅力というか、「改革者」たるための類まれな素養だったのかもしれません。「批判」や「空気」に左右されず、こう思ったものはこうだと主張して実行する「熱さ」こそが、多くの人をひきつけて物事を「動かす」原動力になったのだろうと思います。
ご著書を読んで個人的に心動かされたのは、スキマスイッチの「全力少年」がテーマソングだと書かれていたことでした。2005年に発表されたこの曲の歌詞をあえて引用されたわけなので、きっと、とても好きでいらしたんだろうなと思います。実はこの曲は、わたしにとっても特別な思い入れのあるものだったので、またまた不遜なことながら、淡い親近感を抱きました。
この曲の発売当時、わたしはちょうど瀬棚町の診療所の取材をしていました。駆け出しのディレクターで、どうしようもなく独りよがりな番組しか作れず、取材先との信頼関係も築けず、上司には怒られてばかりで、自分の能力のなさや卑怯さに愛想が尽き、将来に絶望しかけていました。(技術の拙劣さはいまも恥ずかしいばかりですが、当時は正直、本当にひどいもんだったと思います。)
「全力少年」は、そんな自分にとって防波堤でした。つらさや情けなさに心くじけ、壊れてしまいそうなときのためにMP3レコーダーに入れて、取材やロケの空き時間によく聴いていました。
村上先生がいらした瀬棚の診療所を取材した帰り、近くの空き地で「全力少年」を聴きながら自分を奮い立たせた日。北海道の遅い春の光や、風が強かったこと、匂いたつ草の香りに包まれたことまで克明に思い出すことができます。
この歌は、本来なら「大切なもの」を心に持っていたはずなのに、「怯え」によってそれを閉じ込めてきた人間が、少年の気持ちを取り戻して前に進もう!と自分を奮い立たせる内容だからです。
でも考えてみれば、あのころの村上先生は、現在の自分とそれほどは変わらないお年だったわけです。何かを変えようとして、でも根強い反対もあって、スタッフの暮らしも考えなければいけなかったりして、心のなかでは様々な葛藤や不安があったのかもしれません。
もしかしたらあのころ、村上先生も、情けないわたしと同じように「全力少年」を聴いて心を奮い立たせていたのだとしたらと思うと・・・、当時の自分はやっぱり、取材者として何もわかっていなかったのだと思わざるを得ません。
誰も完ぺきではないし、心のなかに不安や葛藤を抱いている。
だからこそ1mmでも「よりよく」するために、自分の置かれた環境で、できることを精一杯やりつづけるために「一歩でも前に」歩み続けるしかないのかもしれません。すみませんカッコよさげなこと言って。夜中のテンションをお許しください。
村上先生の訃報に接し、少し遅くなってしまったけれど、心から哀悼の意を表します。
「わたしも頑張ります」なんて言えるような身分では全くないですが、ほんの短い間でもご指導をいただいたことを忘れず、今後も精一杯やっていこうと思います。
安らかにお休みください。
「全力少年」
試されてまでも ここにいることを決めたのに
呪文のように 「仕方ない」とつぶやいていた
積み上げたものぶっ壊して 身に着けたもの取っ払って
止め処ない 血と汗で 乾いた脳を潤せ
あの頃の僕らはきっと 全力で少年だった
セカイを開くのは誰だ?