「批判」と「批難」~1mmでもより良い未来を目指す議論
2019年 あけましておめでとうございます
今年も宜しくお願いいたします。
年明け早々、思い立って書いた記事が思わぬ反響をいただきました
内容に関してはぜひ、上記リンクをご覧ください。
文春オンラインに掲載された落合陽一さんと古市憲寿さんの対談について気になったことを、過去のデータと共に記したものです。
落合陽一×古市憲寿「平成の次」を語る #2 「テクノロジーは医療問題を解決できるか」 | 文春オンライン
医療経済をテーマにしたちょっと専門的な解説記事ですが、ツイッターでかなり拡散していただき、FBでも2000シェア以上、はてなやNews Picks でも多くのコメントをいただきました。
はてなブックマーク - 「死ぬ前1か月の医療費さえ削ればよい」落合陽一氏×古市憲寿氏対談で見えた終末期医療の議論の難しさ(市川衛) - 個人 - Yahoo!ニュース
「批判」と「批難」の違い
この記事に関しては、「読まれたこと」以上に嬉しかったのが、私以外にも様々な方がされた指摘を当事者である落合陽一さんがうけとめ、丁寧なアンサー記事を書いてくださったこと。そしてこの一連の過程が可視化され、SNS上で好意的なご意見が多く見られたことでした。
@Ochiai さんによる、先日の対談記事の意図に関する説明文。
— 市川 衛 @医療の「翻訳家」 (@mam1kawa) January 5, 2019
お忙しいでしょうに、ひとつひとつ意図を丁寧に説明され、言葉足らずだった部分は真摯に認めていらっしゃることに敬服します。
私の記事も読んでいただけて有り難い。
生まれた議論が、1mmでもより良い将来に繋がりますように https://t.co/YXmoUaUj19
先日拝読した、写真家の幡野広志さんの記事で、とても心に残ったものがありました。
(公開当初は無料で読めたのですが、 現在は有料会員のみ全文が読めるようです)
ここで幡野さんは、「批判」と「批難」の違いについて言及されていました。
※「批判」は、その人の意見に異論はあるけれど、前向きに「より良く」するための意見である
※「批難」はより良くするための意志が感じられないものであり、その背景にあるのは「妬み」である(発言者自身も気づいていないものも含め)
これまでうっすら感じていたことがすっと胸に落ちた気がしました。
今回のわたしの意見は、「批判」たりえているだろうか?
誰かの意見に対して、自らの意見を伝える直前に。
少しだけ踏みとどまって、一瞬でも良いからそのことに心寄せてみることができれば、そこから始まった議論は、何か新しいものを生み出していくきっかけになり得るのだと思います。
そのために心がけたいのは、
※意見を異にする相手への敬意
※最低限の、丁寧な言葉遣い
※前向きに議論を発展させる意思を表現
2019年、SNSなどデジタル世界のことだけでなく、現実世界での他者とのかかわりやディスカッションの際にも、常に、これを心がけようと思います。これが本年の目標、ということかもしれません。
新年も何とぞよろしくお願いいたします!