医療の「翻訳家」を目指して【市川衛】

医療・健康の難しい話を、もっとやさしく、もっと深く。

「科学の言葉」と「感情の言葉」の橋渡し

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【近況報告・長文です】


みなさま、いかがお過ごしですか?

 

私は最近は、いわゆる芸術文化(演劇、ドラマ、オーケストラ、吹奏楽など)の練習や公演をいかに再開していくか、そのガイドライン作りとか、根拠となる実験をどうデザインするかとか、その実験器具をどこから借りてくるのかとか、協力してくれる研究者にどうお声をかけるのかとか、そんなことに仲間と共に日々奔走しています。

 

「ていうかお前、テレビディレクターでしょ?なんでそんなことやっているの?」と言われるかもしれません。

 

いや、もちろんこれらの取り組みはそのうちに、何らかの形でテレビ番組になって人の目に触れることになっています。たぶんね。

しかし確かに、僕が20年前に「テレビ番組のディレクターさん」となんとなくイメージした人とは、ずいぶんかけ離れた立ち位置に来てしまった気がします。

 

何をやっているかと言えば、橋渡しです。

 

事業を主催する側は、少しでも安全に、出来ることを増やしたい気持ちが働きます。だからこそ「これさえすれば大丈夫?」という質問をたくさんしたくなります。そこには不安の気持ちもあります。なので、「感情」の立場にいるといってもいいかもしれません。

 

その質問を受ける専門家は、「これさえすれば大丈夫」ということは存在しないことを知っています。リスクをゼロにすることは、人間が生活をする限り不可能です。なので、「リスクは少ないですが、大丈夫とは言い切れないかもしれません」という正しい言葉を選びたくなります。それが「科学」の立場です。


この2つにはギャップがあります。専門家が「大丈夫とは言い切れないかもしれません」という表現をしたときに、それを聞いた人は「あ、だめなんだ」と思ってしまうかもしれないのです。

 

そんなコミュニケーションのすれ違いの結果、やっていいはずのことができなくなったり、必要がほとんどない過大な対策を実現するための労苦をだれが負担せざるをえなくなったり、逆に、どうしても必要な対策がおろそかにされてしまったりすることが、本当にあるのです。

 

そのコミュニケーションのギャップを埋める「翻訳家」がいたほうが良いのではないだろうか?

 

わたしは、芸術文化の世界ではまごうこともなき「ニワカ野郎」ですし、医療の世界でも、資格もなくちゃんとした専門教育をうけたこともなく、ただただ「合間」でフラフラしてきた人間でしかないのですが、それゆえに不安を抱える人の気持ちも、良かれと思って科学の言葉を発する人の気持ちもわかる部分があります。なので、「橋渡し」という意味では役に立つ部分があるのかもしれないと思うようになりました。

 

演劇とか
ドラマとか
コンサートとか
ライブとか

 

すべての芸術文化は、それが人間として幸せに生きるために必要だから生まれ育まれ引き継がれていったとなんとなく思うんですよね。(ぼくほどの芸術オンチも余りいないと思いますが)

 

この事態において、安全との良いバランスを持って、この文化の営みを止めないため何かをしたいという真摯な志をもつ人たちの間を、橋渡しとなることで前向きにものごとを進めていけたらいいなあ。

 

その結果として音楽に感動したり喜劇に爆笑したり、素敵な演技に共感し涙を流す風景がもどってきたらいいなあと。(当分は、マスクしつつかもしれないですけれど)
というわけで、お目汚し失礼しました。ときたまに投下する、深夜のテンションの投稿

 

スミマセン。

 

まあ、いま自分にできることを、コツコツやっていくよ。一緒にやっていきましょ