医療の「翻訳家」を目指して【市川衛】

医療・健康の難しい話を、もっとやさしく、もっと深く。

認知症の新薬とされるアデュカヌマブ、再審議となりました。

認知症の新薬とされるアデュカヌマブ、再審議となりました。新しい臨床試験の結果が出るのには長い期間と、厳しいハードルが待ち受けます。


「承認」とも「非承認」とも判断を示さない、いかにも日本らしい結論とは思いますが、個人的には妥当な落としどころではないかと思っています。ご関係のみなさまの真摯な判断に敬服いたします。

新しい薬を待ち望む人やご家族がいて、その思いに答えようとして死ぬ気で頑張ってきた人がいて。そのすべての想いが尊い。。。と思うのですが。
しかし、その思いの尊さを真実、大切だと思いつつ、だからこそ、この結果で承認申請するのは生煮えだったと思います。

その段階の結果を、勢い込んで報じてしまったりした、すべての人に責任があると思います。2年前に自分が書いた記事を、再掲いたします。

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今回の開発中止のニュースを目にして、私は15年ほど前に、ある医療関係者と交わした会話を思い出しました。

 当時、アミロイドベータ仮説に基づく研究が進み、次々と根本治療薬の候補が開発され、いくつもの臨床試験が世界中で始められつつありました。

 「アミロイドベータ仮説が出てくるまで、老年期のアルツハイマー病は、病気というより『老化現象の一種』だと思っていた。治療するなんて『老化を食い止める』みたいな、ありえないことだという気持ちだったよ。 でも、時代は変わった。認知症は老化現象ではなく病気、しかも『完治できる病気』になっていくんだ。」

 私は大きくうなずき、医学の進歩のすばらしさに胸を躍らせたのを覚えています。

 以前は「痴呆(ちほう)」とも呼ばれていた認知症。いちど発症すれば手立てはなく、絶望だけが待っていると恐れられていました。アミロイドベータ仮説の登場により、認知症のイメージは「撲滅しうる病」に変わり、希望が生まれたといえるかもしれません。

 しかしそれから15年、当時多くの関係者が夢見た未来予想図は、いまだに実現していません。

 その一方で認知症を抱える当事者からは、認知症を予防や治療によって「撲滅しうる病」とする考え方が強まりすぎると、当事者を社会から「見えない存在」として排除する空気が生まれかねない、という危惧が指摘されるようになっています。

 では、どうしていけば良いのか。

 いま世界的に進んでいるのは、認知症の「撲滅」を目指すのではなく、どうしたら「認知症になってからも安心して暮らせる社会」を作れるのか?について考えようとする取り組みです。

 介護の方法や支援のやり方を工夫し、認知症によって起きる様々な状態の変化に対応できる環境を作ることで、本人や支える人の生活の質を維持しつつ、社会として持続可能な仕組みを整えようとする取り組みが国内海外を問わず進められつつあります。

 将来的に開発されるだろう「根本治療薬」も、「認知症に対応できる社会」を作るための手段のひとつとして、必要な人に必要なタイミングで使われる、というものになっていくのかもしれません。

 「対応不能な絶望」から「撲滅しうる病」へ、そして「対応可能な状態の変化」へと、認知症へのイメージは、この20年ほどでも目まぐるしく変わっています。

 それは、医療の進歩による「長命化」を達成した人類が、それゆえに直面することになった「認知症」という状態への本質的な理解を深め、受け入れようとする過程そのものなのかもしれません。