医療の「翻訳家」を目指して【市川衛】

医療・健康の難しい話を、もっとやさしく、もっと深く。

「だめだよ。でも、わかるよ。」ということはできないだろうか。

なんか最近、身の回りのSNSがいろいろ騒がしいです🥲


それを見るたびに、せっかくの高い志を持った取り組みがこんなことで躓くとは、残念だなあと思ったりすることもあります。

 

そこでつらつらと考えていたのですが。

 

個人的には、ある「絶対に変えたい」と思う理不尽があったとして、それを変革する手段として、「敵を作って徹底的に叩く」とか「頑張っていることを冷笑する」という戦略をとるのは、一時的にはうまくいっても、広がりや持続性がないんじゃないかな…と思います。

 

いや、わかるんです。叩いている人も冷笑している人も、何かを変えたいと必死なんだって。そして、誰かを叩いたり冷笑したりすると、「そうだそうだ!」って一緒になってくれる人がたくさん現れて、嬉しくなることもありますよね。

 

でも一方で、叩かれた側の人や、冷笑された側の人は、そのことを一生忘れません。そして、その叩いた人や冷笑した人がちょっとでもミスなり誤解をされるようなことをしたときに、徹底的にそれを突き、その人の取り組みを頓挫させようとします。それが、自分のされたことへの復讐だと思うからです。

 

なので僕は、「弱腰だ」とか「主張がない」と思われてしまうかもしれないのですが、反対の意見を持つ人を「抱きしめる」ことでこそ変えていけることがあるのではないかと思っています。

 

棘のある人を抱きしめると、自分の身も傷つきます。でも、その棘を丸くすることにはつながるかもしれません。すごく時間はかかるけれど、お互いに抱きしめあえるときがくるかもしれません。

 

例えば自分の親を殺害した人がいたとして、それは絶対に許されないことだけれど、でも、殺害せねばならなかった事情があるのではないか。そこを理解しようとする営みは無駄ではないのではないか。殺人鬼と切り捨てるのではなく、同じ弱い人間として、「だめだよ。でも、わかるよ。」ということはできないだろうか。

 

僕も弱い人間なので、ときに「ケシカラン!」って攻撃しちゃうときもあったりするので偉そうなことは言えませんが。。。

 

なんか分断が拡がっている感があるこの世の中で、そういうことを感じています